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『二俣まつり写真コンテスト』クローバー通り商店街にて作品展示中です!!
11月3日(火)には天竜ファミリータウン前にてイベントを行ないますので、
「天竜産業観光まつり」当日、是非二俣クローバー通りへお出掛け下さい!!

  

2016年01月02日

天竜区内の御朱印を集めてきました。


光明山(鏡山)から見た初日の出

諏訪神社に引き続き天竜区内の神社仏閣の御朱印を集めてきました。




秋葉山本宮秋葉神社 下社

明治初期の廃仏毀釈により、国家神道の頂点である伊勢信仰を脅かすほどの大衆人気を誇っていた秋葉信仰の総本山秋葉寺は大弾圧により廃寺に追い込まれ、秋葉山頂には新たに迦具土命が愛宕山より勧請され秋葉山神社が創建されました。 山頂の神社が火災に遭ったため、山麓の領家坂下六所大明神の隣地に、戦後下社が再建されています。




秋葉総本山 秋葉寺

一千二百九十八年の歴史を誇る火防秋葉信仰の総本山が秋葉寺で、江戸時代に全国的な信仰を集め秋葉原の語源にもなった秋葉三尺坊大権現を御真殿の御祭神としています。





春埜山大光寺

一千二百九十八年の歴史を誇る病難削除の神として信仰を集めた霊場で、御犬様信仰でも知られています。廃仏毀釈の難を逃れ神仏混淆の形式を留めています。御真殿の御祭神は太白坊大権現。
県の天然記念物である神代大杉(春埜杉)は、行基菩薩植林と伝えられ推定樹齢は一千二百年以上。高知の杉の大杉には及ばないが屋久島の縄文杉を上回る日本有数の杉の巨木であり、パワースポットとして来訪者が増えているそうです。




金光明山光明護国禅寺

一千二百九十九年の歴史を誇る天竜川龍蛇神を制する治水の神として広く信仰を集め、鎮守正一位光明笠鋒坊大権現を光明殿御祭神として祀っています。遠州福の神開運出世光明大黒真天は木像として日本一の大きさを誇っています。

遠州三山ウィキペディアにあるように、江戸時代には光明山、秋葉山、春埜山を遠州三山として、熊野三山、出羽三山と共に全国的に名の知れた山岳信仰の霊場となっていました。
袋井の中遠三名刹が遠州三山と称するようになったのは戦後のようです。




二俣は秋葉詣での宿場として栄え、二俣郷は光明山の麓の里でありますから秋葉講、光明講があり、二俣郷社椎ヶ脇神社、村社諏訪神社も祭禮は有名であり、非常に信心深い街であったといえます。

二俣は諏訪神社だけではなく、郷社椎ヶ脇神社、県社秋葉山本宮秋葉神社の氏地にもなっており、光明笠鋒坊大権現という強力な鎮守を戴いて二重三重四重に守られている土地ということです。



二俣郷社椎ヶ脇神社は式内社猪家神社に比定され、一千年以上の歴史を誇り、天竜川下流域に多数の分社を持ち、椎ヶ脇神社祭典奉納煙火(鹿島の花火)はかつて日本一と謳われました。

然し、残念ながら現在御朱印は発行していないとのこと。奥山方広寺の守護神でもある椎河脇大龍王を祀り、龍宮伝説、田村麻呂伝説を持つ大変に格式の高い神社でありますのに、御朱印が用意されていないとは大変寂しい現状といえます(´⌒`;)

  


Posted by 天竜北遠のお祭りを応援する會 at 22:16Comments(0)天竜の信仰

2016年01月01日

激レア!! 遠州二俣諏訪神社御朱印


皆様、新年あけましておめでとうございます。

本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。



遠州二俣諏訪神社の御朱印をゲットしてまいりました!!!

各地の神社仏閣の御朱印を集めている方は大勢いらっしゃると思いますが、徳川家康公に信州諏訪大社と並び称されたと云う遠州二俣諏訪神社の御朱印は元旦(多分午前中のみ)と祭典の日(渡御中を除く…土日は殆ど渡御に出ている)くらいしか頂ける機会がございません。

元旦の朝、初詣にお出掛けの祭には、忘れずに御朱印を頂きましょう!



諏訪大明神の御神体とも云われる天流河は諏訪湖から流れ出し二俣鹿島で磐田之海へ注ぐ。

二俣諏訪神社は信濃国諏訪神社(大社)に倣い上下両社を置いた(下社=新町の大明神は一村一社令に基づき明治六年諏訪町の上社=二俣諏訪神社へ合祀)という、龍蛇神である諏訪大明神(ミシャグチ)の龍頭にあたる位置に座する御社であります。

遠州二俣は天竜川水運の恵みを受け信州以南の物産の集積地として大いに繁栄してきました。 それは天流河龍神諏訪大明神の絶大なる御稜威に守られての恩恵でありましょう。

二俣地溝帯上部礫岩層の露出した磐座と徳川家康公が清瀧の滝と名付けた湧水池(共に隣接する信康山清瀧寺領)は太古の昔から信仰の対象であったと思われ、非常に強い力を湛えたパワースポットであるとも云われております遠州二俣諏訪神社の御神徳は、その祭典が大変エネルギッシュであることが示しているように…家康公の称えし信濃国諏訪神社に並ぶ多大な力が働いていると考えてよいのでしょう。



今年も…龍神の霊力に突き動かされたようにエネルギッシュな諏訪神社祭典の日が待ち遠しいですね!
  


Posted by 天竜北遠のお祭りを応援する會 at 02:44Comments(0)二俣のお祭り

2015年12月31日

『二俣まつり写真コンテスト』入賞賞品の発送について


本年は二俣諏訪神社祭典『二俣まつり写真コンテスト』に多数のご応募、ご協力誠にありがとうございました。

金賞、銀賞、銅賞に入選されました皆様方の作品を阿多古和紙にプリントし、天竜檜のフレームに額装致しました。





金賞の副賞であります篠笛工房『伝家夢笛』作の 篠笛古典調三本調子や



各賞の副賞「祭典DVD」と共に

平成二十八年の年頭に発送致します。

入賞者の皆様には大変お待たせ致しておりましたが、年明けにはお手元にお届けできると思いますのでもう少々お待ち下さいm(_ _)m



平成二十七年『二俣諏訪神社祭典』
十一月の『二俣まつり写真コンテスト入賞発表』
には、非常に大勢の皆様に二俣へお越し頂き誠にありがとうございました。

『天竜北遠のお祭りを応援する会』では、活動内容や形態を発展させ、引き続き天竜地域の祭禮行事の魅力を発信していきたいと考えておりますので皆様、来年以降も宜しくお願い申し上げます。

尚、十一月三日の景品抽選会でのご当選品の引き渡しは終了とさせて頂きましたのでご了承下さいm(._.)m


  


Posted by 天竜北遠のお祭りを応援する會 at 14:08Comments(0)二俣諏訪神社祭典写真コンテスト

2015年11月22日

『浜背負いまつり』 塩は天竜川を遡って帆掛け船で運ばれた~水上の「塩の道」




11月22日(日) 佐久間町大井 旧山香村西渡地区で
浜背負い祭り』が開催されました。




浜背負(はましょ)いとは…

かつて西渡は天竜川水運の港町として栄え、「水運」と「信州街道(塩の道)」を結ぶ重要な「宿場町」でした。

つまり、塩は相良から掛塚へ海船で運ばれ、掛塚湊で帆掛け船(角倉船)に積み替えて天竜川を遡り、鹿島の番所で分一税を取って西渡まで運ばれ、陸揚げされて峠道を背負って登り、信州へと運ばれて行ったようです。

ここが、信州へと繫がる陸の「塩の道」の起点ということですね!



かつては天竜川をひっきりなしに船が行き交い、明治四十三年には天竜川の稼働船は千二百艘、舟、筏乗り三千五百人であったそうです(『天竜市史』より)

高瀬舟(角倉船)は、日本の水運の父、角倉了以が慶長年間(1596-1615)、天竜川に水路を開いたときに導入されたといいます。

慶長十三年(1608)、角倉了以は京都大仏殿建立に使う松の良材を鹿塩、大河原(長野県下伊那郡大鹿村)から伐り出し、天竜川を流し、掛塚から大阪へ回漕したとのこと。



かつては急峻な峠道を百キロ以上の荷を背負って登って行ったそうです。






天竜川水運の港町、そして久根鉱山麓の商業地として大いに栄えた西渡の家並みは日本情緒に溢れています。

普段でも、フラッと西渡の町を訪れてみると、日本人なら誰でも懐かしく、そしてホッとする和みの雰囲気があります。
街全体がテーマパークのようです。



ノスタルジックで楽しい雰囲気のまつりです。



神楽も披露されていました。

この辺りの神楽は、竜頭山の向こう側、勝坂神楽と共通点があるようです。
獅子が派手な女性の着物を纏って舞います。




古き佳き、日本が最も幸せだった時代…



紅葉のピークは過ぎましたが、西渡は景色も素晴しいです。

かつては賑やかで商店も立ち並び、同時に自然に囲まれていた街!
物心ともに豊かな、幸せな日本人の暮らしがありました。

そして、ここは今も、とても良いところです!



九月のお祭りでは坂道を屋台が曳き廻され、大音響の花火が上がります。

風情があります!


  


Posted by 天竜北遠のお祭りを応援する會 at 21:00Comments(0)山香のお祭り天竜区のイベント

2015年11月21日

本日11月21日(土)は天竜二俣クローバー通りで吾妻町稲荷の「酉の市」が行なわれます!!




本日は天竜二俣クローバー通り吾妻町稲荷の「酉の市」が行なわれます!!




雨天決行で、夜は露店が立ち並び、街角ライブや甘酒無料販売もあって賑やかですよ!


例によって大変混み合い道路も渋滞致しますので、二俣へのアクセスは天竜浜名湖鉄道、遠鉄電車、遠鉄バスをご利用下さい!!

最寄り駅は天浜線「二俣本町駅」、遠鉄バス「秋野不矩美術館入口」になります。
※クローバー通りが一部歩行者天国になるため、バスは二俣川沿いの国道152号に迂回します。



また、この機会に『二俣まつり写真コンテスト』景品のお引き取りが未だお済みでない方は「あさの」までお越しくださいますようお願いいたします。









イケダヤタウン店では『二俣まつり写真コンテスト』入賞作品を、天竜谷島屋書店、あさのでも引き続き応募作品を展示致しております。
既に御覧になった方も、未だの方も、是非お気軽にお立ち寄り下さい。


  


Posted by 天竜北遠のお祭りを応援する會 at 11:10Comments(0)二俣諏訪神社祭典写真コンテスト天竜区のイベント

2015年11月19日

『二俣まつり写真コンテスト』応募作品のご紹介⑭ 二俣型大屋台の至宝 古城連


『祭り晴れ』

青空と白い垂れ提灯、そして照り起りの美しい古城連の大唐破風。茨の部分に光が反射しているのも良い感じです。一位票四票、二位票三票が集まりました。


『筆頭、最後の大仕事。』

こちらの作品は一位票一票でしたが二位票は七票集まりました。今年の古城連筆頭が最後の大仕事として根取(楫取)を務めている場面。 襷を脱ぐまで気は緩められませんね。


銅賞 『走れ!』

勇壮豪快に走り出す曳き別れのシーンを二階から捉えた作品が見事銅賞に輝きました。一位票二票、二位票七票でした。
こうして見ても、やはり古城連の大屋台は美しく流麗な姿をしていますね。


『今、出るところ』

昨日紹介した作品が一位票一票二位票六票

実は、何れも古城連を写したこの四作品が、銅賞最後の一枠を争いました。

今回の『二俣まつり写真コンテスト』は、応募108作品に対し、皆様の投票で一位票を得た作品が65作品と大きく評価が分かれ、大激戦となりました。
入賞作品以外にも好印象の作品が非常に多かったということでしょう。


『古城連曳き込み』

こちらは諏訪神社の正面に正対した古城連大屋台。手水舎や社叢の配置が絶妙ですね。一位票三票獲得。



『眠くなってきちゃった…』

こちらも一位票一票二位票四票…

古城連を写した作品は非常に多く、票が分散したかもしれませんね…



銅賞 『豪快な屋台曳き廻し。』

こちらは一位票六票、二位票六票を得て銅賞となった作品。
「全員が同じ方向を向いているのが良い」という声がありました。
古城連の屋台は絵になりますね。






古城連大屋台

明治三十二年建造
二俣型一層唐破風大屋台
大工 平山幸太郎師
彫刻 増井時三郎師

  


Posted by 天竜北遠のお祭りを応援する會 at 21:56Comments(0)二俣諏訪神社祭典写真コンテスト二俣のお祭り

2015年11月18日

『二俣まつり写真コンテスト』応募作品のご紹介⑬ 鳥羽山隧道と上竜橋


『今、出るところ』

一位票一票、二位票六票を集めましたが入賞まで僅かに届きませんでした。もどせで鳥羽山隧道(新トンネル)に入り、今、まさに古城の屋台が出て来たところ。

鳥羽山隧道は昭和十七年に開通、昭和二十八年に二級国道152号線に指定され、延長線上の鹿島橋と共に北遠と浜松を結ぶ大動脈として城下通りに繁栄をもたらしましたが、飛龍大橋が出来るまでは交通渋滞の名所でもありました。
『二俣町祭典年番記録』によれば、昭和二十五年には西古、旭、吾妻の三連が諏訪神社祭典宵宮の二十一日夜(二俣郷社椎ヶ脇神社祭典神輿還御の日) 鹿島ヘ屋台乗入レノ件 を連合會動議提案しています。この頃は二俣郷社椎ヶ脇神社祭典「鹿島の花火」、村社諏訪神社祭典が続けて行なわれており、鳥羽山隧道を通り鹿島まで二俣の屋台を曳いて行けば観光効果は絶大と考えたのでしょうか。



鳥羽山洞門(旧トンネル)を往く北カ連の舟屋台。古来、二俣村と北鹿島村の境は川口村で天竜川に合流していた二俣川であり、二俣側の鳥羽山麓に数軒北鹿島所属の住宅があるため、北カ連の舟屋台は鳥羽山洞門を通ってやって来ます。

トンネルを屋台が行く、というのも橋を渡る同様、絵になりますね。


『渡り』

こちらは上竜橋を渡る屋台。上竜橋の位置には、元々双龍橋が架かっていましたが、昭和十七年、国鉄二俣駅から幅十五メートル道路が建設され、延長線上に新たに双竜橋が架けられ、元の双龍橋は上竜橋と名前が変わりました。


『二俣川』

赤い橋を屋台が渡っていく様子は、なかなか絵になりますね。




かつての双龍橋、轟橋は木造で、橋の長さも現在より長く、屋台が橋を渡るときはそっと静かに渡ったと云い、「深囃子(ザーザー)」「流し(ヒイカチカ)」などお囃子も静かな曲が選ばれました。


  


Posted by 天竜北遠のお祭りを応援する會 at 22:01Comments(0)二俣諏訪神社祭典写真コンテスト二俣のお祭り

2015年11月17日

『二俣まつり写真コンテスト』応募作品のご紹介⑫ 二俣の夜を彩った芸妓衆と花屋台


『夜の華』

昭和三十年の天竜区(二俣町、犬居町、浦川町、水窪町、光明村、龍川村、龍山村、気多村、熊切村、山香村、佐久間村、城西村、熊村、上阿多古村、下阿多古村)の人口は十万人。戦後復興、朝鮮戦争特需、高度成長期突入で材木、鉱山の需要が急伸、ダム建設で技術者、建設作業者が増加し、羽振りの良い旦那衆も多く、二俣には芸妓衆が三百人もいたと云います。

当時は芸妓連、東洋紡の花屋台も繰り出し、十四台揃った大屋台の他に花屋台が十二台、三味線のお囃子を伴って賑やかに曳き廻されていました。
近隣の見物客が語り草としているのは、この二俣の花屋台の華やかさ。



昭和三十年前後には望月万蔵師や住田直司師らが浜松へ教えにいっていたという歌舞伎の出囃子や長唄をベースにした三味線の入ったお囃子は、今の二俣では聴けなくなってしまいましたが…



かつての二俣芸妓連花屋台を彷彿させる東京八王子の花屋台



芸妓連花屋台が二俣まつりの華やかさを象徴していました。



昭和十年、浜松まつりに三嶽駒吉の重層入母屋造御殿屋台が登場した頃、浜松まつり見学を経て平山安太郎師らが建造した「太閤のご時世を偲ぶ桃山時代風」重層入母屋造花屋台。
三味線は入りませんがかつての花屋台のお囃子が残る南がく連。





㡌山連では近年まで三味線が入ったお囃子を奏でていました。


『あかりの中で』


『宵の山車』



古城連花屋台は平野孝師建造、白山連花屋台は小池佐太郎師建造。
二俣の花屋台は超一流の屋台大工が腕を競って建造しており、近年曳き廻しの機会が減っていることは非常に残念なことです。

一世を風靡した二俣の花屋台。
いつかまた、三味線の音を復活させることが出来たら素晴しいですね!



【追記】
 昭和三十年頃の二俣の賑わいというのは、今からは全く想像もつかず、近年では「二俣って本当に栄えた街だったの?」という声が聞こえるようになりました。
 二俣の栄華を象徴するものが「太閤の時代を偲ぶ桃山時代風」と謳われた重層屋根の花屋台。
 昭和三十年頃には諏訪神社神輿渡御に供奉する十四台の大屋台に加え十二台の花屋台が街へ繰り出し、三百人いたという芸妓衆(祭りともなれば、近隣の芸妓衆や幇間、大道芸人も大勢集まってきたと思われます)が華やかに「二俣まつり」を演出していたようです。
 この頃は、八月二十日が二俣郷社椎ヶ脇神社祭典奉納煙火(鹿島の花火)二十一日から三日間が二俣村社諏訪神社祭典であったので、連日遠鉄電車(当時は「二俣電車」)や国鉄二俣線に乗って大勢の見物客が訪れました。

 戦時中の天竜区は疎開先として浜松や磐田、そして関東東京から多くの人々を受け入れていました。戦後も天竜に残った人達も大勢いたし、祭りとなれば「第二の故郷」として還ってくる人達も大勢いました。それは空前絶後の賑わいであったようです。
 戦後、空襲の被害がなかった二俣はいち早く復興し、大空襲の被害を受けた浜松へ木材を中心とする豊富な物資を供給しています。一時的ではありますが、二俣が遠州経済の中心となっていた時期があったようです。

 二俣諏訪神社神輿渡御に供奉する本祭の大屋台は女人禁制であり、付祭として底抜けの花屋台が各町婦女子と芸妓衆によって明治期より曳かれていましたが、この頃はまだ簡易的な造りの屋台であったようです。
 戦後、ベビーブーム期には二俣中一千八百人、龍山中でも六百人の生徒がいたそうで、好況と小共(二俣では何故か子供を小共と書いていた)世代の増加に後押しされ戦後、豪華絢爛な桃山時代風花屋台の建造ブームとなりました。
 平山安太郎師、北島俊二師、小池佐太郎師、平野孝師ら、当時の遠州を代表する屋台大工によって建造された二俣の花屋台は非常に価値が高く、歌舞伎囃子や長唄を取り入れ、東京歌舞伎の囃子方望月流、住田流の手が加わったお囃子も浜松まつりにも影響を与えた貴重な文化財です。

 戦後復興期の華やかなりし天竜を忘れず、地域に誇りを取戻し、過疎地、限界集落、斜陽の街と頭を抱えるネガティヴな状況から脱却し、もう一度、豊かな山の暮らし、御先祖様が遺してくれた伝統文化を足掛かりに地域の発展に繋げていく象徴として、花屋台の栄華をクローバー通りに再現したらインパクトがあるのではないかと思います。


  


Posted by 天竜北遠のお祭りを応援する會 at 22:35Comments(0)二俣諏訪神社祭典写真コンテスト二俣のお祭り

2015年11月16日

『二俣まつり写真コンテスト』応募作品のご紹介⑪ 浦安の舞と清瀧の池


『深々(しんしん)と心神に』

諏訪神社祭典では、金曜日の夕祭、土曜日の例大祭、日曜日の御旅所祭にて「浦安の舞」が奉納されます。


動画は昨年のものです。


『みつめる』


『清める(きよめる)』

何れの作品も舞子さんの表情をしっかりととらえた清々しい写真ですね!


『お滝、池の畔で』

揃いの法被と帯、池の畔に並んで座った女性陣の後ろ姿と水面に映る影。
これだけ整ったシーンに出逢えることは滅多にありません。会心のワンショットですね。



神秘的な佇まいを見せる諏訪様?の池…

池と塩地蔵、二本の杉と拝殿。これら全てが諏訪神社と思っている人が多いですが…

塩地蔵から左は池も含め信康山清瀧寺の一部です。


そもそも清瀧寺という名前は池の水源である小さな滝から徳川家康公が亡き長男徳川信康を偲んで命名しているのです。

清瀧寺の池は鹿島八幡宮の湧水と共に静岡の湧水100に選ばれているそうです。

  


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2015年11月15日

『二俣まつり写真コンテスト』応募作品のご紹介⑩「もどせ」と勇壮な大屋台曳き廻し


『はしれ!走れ!』

豪快に走る屋台を流し撮りした作品。二俣ならではの曳き廻しの迫力が伝わってきます。


屋台が走り出すと小共達も身を乗り出して屋台の行先を見つめています。
二俣の小共達は小さな頃から激しい屋台の曳き廻しと祭り人の熱狂が自然と体に刻み込まれていくのですね。


『もどせっ 戻せっ!』

こちらも流し撮りの作品。熱気溢れるもどせの迫力も二俣諏訪神社祭典の大きな魅力となっています。


天和初年(1681)より三百有余年連綿と続く二俣上下諏訪神社神輿渡御に供奉する大屋台は、神が舞い降りる依代であり、屋台に向き直って「もどせ」をする場面は、日本の祭りの原点であるひとりひとりが神と向き合い、祭りの夜人と神が一体となる様を具現化しているようです。


遠州二俣郷山東八幡神社祭典

屋台は『聖天』を奏で静々と参道を進み、鳥居を越える瞬間にぎやかなお囃子に切り替えて勇壮に「もどせ」で神域へと切り込んでいきます。
鳥居を声お囃子を切り替え場の空気が変わる刹那、神が依代たる屋臺へと乗り込んでくる。祭り人は一斉にその瞬間を囃し立て神と一体になることを目指したのでしょう。

山東八幡神社の祭典でも二俣同様明治の早い時期に屋台を曳いている記録があります(起源は定かではありません)。

山東八幡神社は古来二俣村(二俣郷城下村)と山東村の村境の山(烏帽子山?)の上にあり、二俣山東両村の氏神であったが、元禄元年(1688)現在地に遷座したと伝わります。
二俣古城(笹岡城)は八幡神を信奉する源氏政権の頃に築かれたという説もありますので、当初は車道から相生中村辺りまでが二俣郷の中心であり、二俣山東両村に跨がって八幡神を祀り、諏訪神は田中(のちの城下村=古町)の氏神であったかもしれません。
秋葉神輿の流行が貞享二年(1685)、江戸に大型の飾り屋台が登場したのが元禄の頃、と云われますから、天和、貞享、元禄の頃、神輿と屋台の祭りが江戸を中心に整い始めていったようです。

二俣郷は江戸城御用達の榑木材を信州北遠から集めて集積し、筏に組み江戸へと送り出す重要な拠点であり、徳川家康公も榑木の検分に直々にお出ましになったと云われ、光明村の勝栗献上は大名待遇で迎えられ、信康山清瀧寺は徳川所縁の寺、遠州二俣光明寺は江戸幕府祈願所であったため、江戸から二俣へ出向く商人も多く、秋葉詣での隆盛もあり江戸関東の情報はいち早く伝わっていたようです(それ故、江戸時代の代表的な国学者内山真龍翁を輩出した)。

おそらく天和から元禄にかけての二俣郷には江戸の屋台や神輿の情報は伝わっており、笹岡城、二俣城の武家中心の祭祀から民衆中心の祭禮へと変化する大きな転機があったのではないでしょうか。

祭りの所作には、そうした連綿と紡がれてきた古来の祭禮の記憶が刻まれています。
どんなに時代が変わっても、神と向き合うことを忘れぬように。



『聖天』を奏で諏訪神社神輿還御の先駆を勤める宮本諏訪連。
大屋台が鳥居を正面に見据えようとする瞬間、にぎやかな『馬鹿囃子』に切り替え猛然と走り出す。そして神域へ入った屋台は「もどせ」で所定の位置へ。
この年は曳き綱を持っていた小共が躓いてしまい一旦停止をしていますが、諏訪大社御柱祭同様一見危険と思える所作が二俣諏訪神社祭典にもありますが、それは意味があって行なわれてきた祭りの形なのでしょう。






「もどせ」は浜北区、磐田市旧豊岡村など近隣にも広く伝播した祭禮文化であります。









旧天竜市域、龍山町では勇壮な屋台曳き廻しと「もどせ」は祭禮の基本


御旅所大明神に還幸した諏訪神社神輿。
今、ここに神がいる夜。
祭り人の熱狂は、古来からの祭禮の本質を失ってはいない。


  


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