『二俣まつり写真コンテスト』クローバー通り商店街にて作品展示中です!!
11月3日(火)には天竜ファミリータウン前にてイベントを行ないますので、
「天竜産業観光まつり」当日、是非二俣クローバー通りへお出掛け下さい!!
2015年09月20日
水窪屋台の系譜 戦前からの伝統技法 浜松型、掛塚型、二俣型の違い
八幡若連の屋台は昭和五年に浜松八まん連が、浜松まつり初の本格的な屋台として建造。
大工は三河牛久保の岡田五左衛門。
八幡若連 水窪町奥領家神原
浜松型一層唐破風屋台
昭和五年(1930) 浜松市八幡町八まん連建造
大工 岡田五左衛門 豊川市牛久保
彫刻 浦部一郎 浜松市利町(豊橋市出身)
昭和三十五年(1960) 八幡若連へ譲渡
本町若連の屋台は浜松市鴨江町の宮大工、浜松型重層入母屋造り御殿屋台の祖、三嶽駒吉師の息子、三嶽一郎氏の作。
本町若連 水窪町奥領家
浜松型一層唐破風彫刻屋台
昭和四十九年(1974)建造
大工 三嶽一郎
彫刻 浦部一郎
向市場若連の屋台も腰が低く唐破風が大きく張り出し御簾脇彫刻が入った浜松型一層唐破風彫刻屋台。
小畑若連の屋台も堂々として大きく張り出した大唐破風、浜松型一層唐破風屋台。
水窪の屋台四台の彫刻は全て豊橋出身で浜松市元魚町在住の浦部一郎師が刻んだとされており、掛塚型一層唐破風本舞台や二俣型一層唐破風大屋台が多い天竜区の中で、浜松型の屋台で統一されているのは珍しい。
佐久間町佐久間 漢気(おとこぎ)連は掛塚型一層唐破風本舞台 大工小池佐太郎師
横山町井勢木 井組連は二俣型一層唐破風大屋台 大工平山安太郎師
横山町東 朝日連は浜松型(三嶽流)一層唐破風大屋台 大工三嶽駒吉師
掛塚型は「掛塚型大唐破風」という直線的で力強い大唐破風を特徴とし、全般的に車幅が広く腰が高い。
二俣型は照り起りを強調した曲線基調の唐破風で車幅は狭い。
浜松型は大型の唐破風で軒が大きく張り出している。全般的に車幅が広く腰が低い。
大まかに言うとそんな特徴があります。細部を見ていくとまだまだそれぞれに多くの特徴的な様式があり、戦前は地域によって明確な屋台造りの違いを見ることが出来ます。
巨大な唐破風を持つ佐藤中町の屋台。
浜松型は三河からの影響が強いようです。
二俣型の古城連と掛塚型の西古連。西古連の漆塗は二俣仕様。
相生連は二俣型ですが腰高欄から下は掛塚様式に改造、漆塗も掛塚仕様。
戦前は、どの地域にも腕の良い大工がおり、屋台は地元の大工が造ることが基本でした。
本町若連の屋台を建造した三嶽一郎師の弟子、三嶽四代目早川真匠師が建造した城南連と吾妻連の大屋台。
随所に本町若連屋台と共通の様式が見られます。吾妻連大屋台は水窪欅を使用して造られています。
戦後は独自の工法で屋台を制作する工務店が増えましたが、伝統の技法で遠州四輪屋台建造を行なっているのは掛塚型の小池工務店と浜松型の三嶽四代目早川真匠師が代表格で、二俣型屋台大工の系譜は戦後の北島俊二師を最後に途絶えています。
遠州四輪屋台を「掛塚式」と一括りにするケースが多いようですが…。
これは戦後掛塚出身の屋台大工、工務店が浜松まつりを中心に浜松型御殿屋台を受注生産したことも理由だと思われますが、本来の掛塚型は典型的な様式を持った掛塚型一層唐破風本舞台であり、戦前には二俣型、浜松型という明確な地域による屋台造りの違いがあったわけですから、近年の創作屋台とは線を引き、それぞれの伝統的な屋台造りの系譜を未来へ伝えていく必要があるのではないかと思っています。